終電の座席に沈むように座ったとき、私はすでに少し酔っていた。
三十二歳。市の文化振興課で、展示会の案内文と来場者リストを毎日整える仕事をしている。大学では日本文学を専攻し、どこかで本に囲まれて生きるつもりだったのに、気づけば書類と電話と窓口対応の繰り返しだった。
同僚の男性たちは私を「真面目な人」としか見ない。合コンに出ても、最初は話を合わせてくれるのに、二杯目あたりから視線が逸れていく。帰り道、スマホの画面に映る自分の顔を見て、ふと「もう、誰にも選ばれないのかもしれない」と思う夜が増えていた。
それでも、企画課の高橋さんを思い浮かべると、胸の奥が熱くなる。彼は結婚していて、子供もいる。決して手の届かない人だからこそ、夜になると想像が止まらなくなる。シーツの上で自分の指を動かしながら、彼の低い声を脳内で再生する。そんな夜が、週に何度かあった。
その日は、大学時代の友人と久しぶりに会い、駅前の居酒屋で二時間ほど飲んだ。日本酒が舌に残っていて、終電に飛び乗ったときにはすでにまぶたが重かった。車両はほぼ空いていた。私と、反対側の座席に座る五十代くらいの男だけ。グレーのジャケットに少し乱れたネクタイ。酒の匂いが、薄い空気の中に漂っていた。
私は窓際に寄り、バッグを膝に置いて目を閉じた。スカートは膝丈のベージュ。黒のストッキングを履いている。いつもの通勤着だ。意識が遠のきかけたとき、かすかな視線を感じた。
まぶたをうっすら開けると、男の目が私の脚に固定されていた。ストッキングの上からでもわかる、太ももの線。スカートの裾が、電車の揺れで少し上がっている。彼は唇を結び、喉を鳴らすように息を吸っていた。視線は太ももの内側、さらにその奥へと執拗に這っている。
「このまま、寝たふりをしたら……」
頭の中でそんな声がした。普段の私ならすぐにスカートを直し、視線を逸らす。なのにその夜は、なぜか体が動かなかった。むしろ、脚を少し開くように重心をずらした。スカートの裾がさらに上がり、ストッキングに包まれた太ももの付け根が、薄暗い車内灯の下で露わになった。
男の呼吸が明らかに変わった。右手がズボンのポケットに滑り込み、生地の下でゆっくりと動いている。膨らんだ部分が、布越しに輪郭を変えていくのがわかった。私は初めて、男が自分を見て自慰をしている現場に立ち会っていた。耳まで熱くなった。ストッキングの内側が、じわりと湿っていく感覚がはっきりわかった。下着の布が肌に張りつき、熱を帯びた液体がゆっくりと広がっていく。
脚を掻くふりをして、スカートをさらに二センチほど上げる。男の手が動きを速めた。ポケットの中で指が、はっきりと上下している。私は目を閉じたまま、自分の太ももの内側が熱を帯びていくのを感じた。電車の振動が、ちょうどいいリズムで下腹部に伝わってくる。陰部の奥が、小さく収縮するたびに、濡れた布が擦れて甘い痛みに近い感覚が走った。
「……んっ」
小さな吐息が漏れそうになり、歯を食いしばった。男は身を乗り出し、私の脚の付け根あたりを凝視している。ストッキングの薄さでは隠しきれない、太ももに沿って落ちてきた濡れ跡まで見えているのかもしれない。ポケットの中の手が、さらに激しくなった。私の中では、高橋さんの顔とこの男の視線が重なり、混乱していた。好きな人には抱かれない。ならば、今この密室で、見知らぬ男の欲望に晒されること自体が、私を「女」として存在させている。そんな考えが、酔いに乗って浮かんだ。
下着が完全に湿っている。ストッキングの生地が肌に張りつき、電車が揺れるたびに微かな摩擦が走る。陰核が布に擦れ、小さな電流のような快感が腰まで駆け上がる。男の荒い息が聞こえる。私は脚をゆっくり開閉させ、その動きを彼に見せていた。自分でも信じられない大胆さだった。開くたびに、濡れた布が陰部に吸い付く音が、自分の耳にだけ小さく聞こえた。
「セックス……したい」
心の奥で、はっきりとそう呟いた。声には出さない。ただ、腰がわずかに浮き、座席に擦りつけるように動いてしまう。男の手がさらに激しくなった瞬間、私の中で熱いものが溢れそうになった。あと少しで、このまま電車の揺れと視線だけで達してしまいそうだった。
そのとき、電車が駅に滑り込んだ。
ドアが開く音と同時に、制服姿の学生たちがどっと乗り込んできた。淫らな空気は一瞬で壊れた。男はポケットから手を抜き、窓の外を見るふりをした。私もバッグを抱き直し、平然を装った。ただ、学生たちに向けられた彼の一瞬の舌打ちと、まだ熱を残した視線だけが、記憶に焼きついた。ズボンの前が、まだ不自然に膨らんだままなのが、チラリと見えた。
家に帰り、玄関で靴を脱いだ瞬間、ストッキングの内側が冷たく感じた。浴室に入る前に、鏡の前でスカートをまくり上げた。黒の生地が、明らかに濡れて光っている。太ももの内側まで、透明な液が筋を描いていた。
ベッドに倒れ込み、ストッキングを下ろすこともせず、指を滑り込ませた。終電の揺れを思い出し、男の視線を思い出し、高橋さんの声を重ねた。脚を大きく開いたまま、小さな声を漏らした。
「……あ、んっ……見られてる……見られながら、こんなに濡れて……」
指が陰核を直接撫でると、腰が跳ねた。もう片方の手で胸を掴み、乳首をつまむ。終電の中で感じた、誰にも届かない欲望の熱が、今度は自分の手で再現されていく。指を二本入れ、中を掻き回すたびに、濡れた音が静かな部屋に響いた。男があのときポケットの中で動かしていた手の動きを、自分の指で真似する。
「はぁっ……ん、もっと……あの人の目の前で、イキそうになってた……」
絶頂が近づくにつれ、終電のドアが開く音が頭の中で鳴った。未遂のまま終わったあの昂ぶりが、今、私の中で完結しようとしていた。腰を大きく浮かして、指を奥まで押し込みながら、声を殺して達した。熱いものが溢れ、ストッキングの内側をさらに濡らした。
しばらく仰向けのまま、荒い息を整えた。結ばれなかった。触れられなかった。それでも、あの夜の視線は、確実に私の中に残っていた。孤独な日常の中で、わずかに開いた「女」の感覚として。翌朝、洗濯機に入れたストッキングを見つめながら、私は静かに、もう一度脚を閉じた。


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